仕事と遊びに東奔西走

ブログ村エッセイの自分コーナー、「幸せ」という文字が入ったタイトル3つ続けて並ぶ。
どうも良くない。


わたしは、どこへ行っても同じだ。
パリのアパルトマンに長く滞在していても、部屋っ子だし。
一人でいると、なんであんなに落ち着くのか細胞再生療程
じゃあ、コロナ自粛はもってこいだったのか。
No.
わたしにはメリハリは必須。
全く微動だにしない時間と、活動する時間。
この時間比率や、濃度比率は、人とは多少違うかも知れないが。


一生のうち、ほとんど動き回っていて、一瞬でも止まると死ぬという、マグロみたいな特徴を持つ人もいる。
わたしが知る、あるリアル人もそういうタイプで、年がら年じゅう、仕事と遊びに東奔西走している。
とっくに還暦は過ぎているのに、リタイアも全然出来ずに、いつまでも忙しく立ち回っている。
本人が選んだ道。
ひーひーいいながらまんざらでもなさそうなので、M系傾向もあるのだろうか。
周りに多大な迷惑をかけないなら、自分がよければそれでいい。


ただし、人にも自分の道を押し付けなければ腰背痛 舒緩
人には押し付けないものの、承認欲求が鼻につくのが、タマにキズだが。


「いいよな、何もしなくて。
退屈じゃない?
つまらないだろう?
ひょっとして、何もしないのではなくて、何もできないの?
能力がないの?」


ちょっとこちらが優位な発言をすると、途端に
「そう!!よかったね!!」とイヤミったらしい逆の表現で、明らかに面白くなさげ。
自分を承認するために、人を下に見ようとするが、逆転の分野があると一転して認めたくなくて、卑屈になる。


わたしから発する、絶賛とまでいかないクールな反応でよければ、いくらでも、ひーひーいってくれたらよいpico 去斑


わたしは、あれした、これした、あれ出来る、これ出来る、と、あまり言わない。
言いたくない。
なぜなら、きっと、嫌な臭いがするだろうと想像するから。
人に自分を知ってもらっても、さして喜びを感じない。
自分が自分を知っているから、満足。十分。
自分を通り越して、人にまで承認欲求が及ばない。
たぶん、内向的な性格から来るものだろう。
それと、変な自意識過剰。
砂糖と塩の混ぜ方を間違えているかんじか。
隠し味の砂糖は料理を引き立てるが、甘さが出過ぎると逆効果。
ほどほど出すのは、バランス感覚が必要だ。
やり過ぎと、やらなさ過ぎの、中間が良い。



ちなみに話はごろっと変わるが、
ドキュメントやニュースで、誰にも知られず最期を迎えた人のことを知る。
不幸の連鎖により、誰にも知られなくなった経緯、いきさつは気の毒である。
ドキュメンタリーは、伝える側の気持ちが反映されている。
本人は本当にそう思っていたのかどうか、わからない。
事実だけを淡々と伝えると、見る側は客観的事実からその奥にあるものを想像する。
不幸な人々や、喜びに満ちた人々、色々いる。
一人の人にも喜怒哀楽がある。
一つ一つのドラマは人の数だけある。


才能や作品に恵まれた有名俳優も、病魔に冒されたりする。
華やかな光の部分を世界中の人が知っているだけに、明暗の落差は周知の事実となる。
一般の人々は、色んな想いを抱く。
人の想いに蓋をするわけにはいかない。
有名人は特別枠だとしても。


しかし、あんまり人の思惑ばかりに囚われると、自分の幸せを逃す。
だが承認欲求は、自分が得たい幸せのために、承認されることを渇望する。
ぐるぐるそういう矛盾と闘うことになるのだろう。


その代わりと言ってはなんだが、人に承認されなくても、自分に承認されたい欲求がわたしにはある。
つまり、自分が課した理想像。
これを目指して走るのだが、公表していないので、実現できなくても何の問題もない。
途中で変更も大いにあり。

の中に入れていたモノを次か

突然閃いて、外出先からの帰りの電車内でカバンの中をごそごそ探した。
ごそごそごそごそ。
ん?
ごそごそ、ごそごそ、ごそごそ迷你倉
だんだん、ごそごその擬態語の音量が増す。


わたしは4人ボックス席に一人で座っていたが、周りの席に誰もいないのをよいことに、カバンの中に入れていたモノを次から次へと取り出し、横の席に並べた。
取り出したモノの中にはスマホはない。
残りのがらんとしたカバンの中にもスマホはない。
どういうこと?どういうこと?


隣の4人乗りボックス席に中年のビジネスマン2人が乗り込み、仕事の話をし始めた。
だが、そのうちの1人は、わたしとは通路を挟んで斜め向かいに位置する。
こちらを向く格好。顔は明らかにわたしの方向。
探し物をしているわたしは、段々、人の目が気になり出した裝修後除甲醛
これは、人目がないところでもう一度、ゆっくり探したほうがよいと思った。


とりあえず、乗り換え駅で降りて、ホームの椅子に腰掛け、一人でまた一から、ごそごそごそごそを再び始めた。
しかし、車内で一通り、一つ一つカバンから取り出して点検した後でもあり、やはりスマホがないことを確認するだけに終わった。


どういうこと?
なぜ?
なぜ無い?


夕方のホームの椅子でしばらくわたしは考え込んだ。


失くすとすると、あの地点、この地点、2箇所が有力になった。
行き先、立ち寄り先である。
1番疑わしい、乗車駅にポイントを定めた。
そこへ戻ろう。
そこへ向かう反対側のホームに移り、元の来た駅に向かって電車に乗り込んだ。
その車内のわたしの心境は、、、


無かったらどうしよう?
あるはず。
あったらいいな。でも。
あった時の感激の自分と、期待して無かった時の消沈する自分が、お互いをなだめ合い、牽制し合っていた。
期待するな。
いや、でも。
無かったら次は、どうする? 次の地点か脫毛 價錢
とりあえず、第一候補地に行かなければ、次はわからない。


不安に胸を押しつぶされそうになりながらも、若干の期待がちらちら。
この気持ちは希望とは少し違う、複雑なもの。
あの引き返す車内時間は、長かったのか短かったのか、時が進んでいたのか止まっていたのか。
癌再検査を受けた後の結果待ちをしているような、祈るような胸中。

き流れるように生きて

とまあ、女子大と短大と四年制大学あたりの時代をふらふら何の意思も持たずに浮き流れるように生きてきたわたし。
じつは、幼稚園児の時から将来の希望は「お嫁さん」だったのだ。
しかも、競争に負け落ちる自分をすでに5歳で予想していた助聽器推薦
ある意味、鋭い5歳である。
まさに、結婚こそが自分の人生のゴールであり全てであるかのごとく。
やがて時は進み、「王子様と結婚したシンデレラは、幸せになりました」とそこで終わるストーリーを皮肉たっぷりにニヤニヤして読んでいる時代もあった。
当然ながら、そこからがスタートである。
(今は、般若心経を唱えながら、シンデレラストーリーを読み流している)



結婚以外に自分のアイデンティティを見出し、結婚は自分のアイテムのひとつであるのもよし。
アイテムから外すのもよし肌底槍
結婚は、全てではない。
5歳のわたしは、結婚から外れた自分を想定していなかったから、選択肢は少なかった。
しかし、無いわけではなかった。
自らの意思で、泥船から沈没船に乗り移っただけである。
泥船はどうしようもないが、沈没船は泥船よりはマシ。
起死回生を掛けて、苦心、工夫して沈没から逃れることも出来るだろう。


自分の人生は、自分でどうにかしなければならない。
(究極の死活問題でもない限り)、人に頼ったり、人のせいにしたり出来ない。
仮に最悪だったとすると、それは運命、宿命みたいなものだから、抗おうとしないほうがいい。
もがくと、益々、悪い方向に進む。
(こころの病気になり悪化する人もいる)
じっとして時を待つ。
明けない夜はないが、地球の位置によっては明けない夜ばかりの地域もある?
それはそれ。
引っ越しするなり、その地で生涯を終えるなり、なんらかの動きがあるだろう。
動かないという動きはない。
自分は動かなくても、周りは動いている。
動かないまま、時間は動いている助聽器比較
じっと止まったまま時間は経過しているので、時が止まったままということはない。
たんなる比喩表現である。


「朽ち果てる」という時の進み方もある。
どこかの国の超お偉いさんのように、死後も永遠にプリザーブド?フラワーのごとくまるで生きているかのような姿のまま、国民や訪れる人に姿を見せることもある。
銅像より、よりリアル。
昆虫採集の見本のようでもあるが、いくつもの虫をピンで留めているモノとは、扱いが全く違う。当たり前。


生きモノとしてではなく、語り継がれる、という伝達方法もある。
これは、後に書き変えられることもあるし、時代によって受け取り方や解釈が違うこともある。


何しろ、本人は止まったままでそこでジ?エンドでも、時代は動く。
朽ち果てようが、永遠に語り継がれようが、本人としては終わっても、周りは動く。
うーん、、、脱線ばかりして戻って来れない、、、で、わたしが何が言いたいのか、、、と考えてみる。
広義の意味で無常であるということ。